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パプアニューギニア JICA海外協力隊ブログ!(パプア服部くんのPNG日記)

考えたこと・感じた事

なんで高校の教員に戻らないのか。青年海外協力隊のその後。

2020/04/22

最近は動画投稿にばかりですが
今回は久しぶりにブログの記事を書こうと思います。

内容は「僕が学校の教師に戻らない理由」です。

この記事の目次

この記事を書こうと思ったきっかけ

先日、「地域」のイベントでオンラインのZoom会議にてパプアニューギニアでの体験を話させていただく機会がありました。

この「地域」というのは協力隊になる前の教員時代にお世話になっていた勤務校周辺の地域です。4年前、よく学校の総合的な学習の時間に生徒と一緒に地域のおじさんたちに色々なことを教えてもらっていました。

そんな親しい間柄の地域のおじさんたちからたくさん言われたことがあります。

それが…

「服部先生、学校の先生には戻らんの?」
(僕が新学期が始まっても、いまだニートだから)

自分で思っていたより、たくさんの人からこれを言われたのでびっくりしました。確かに、パプア 出国前は「帰ってきたら立派な先生になって、高校の教員採用試験に受かってやる!」と思っていたし、そう周りにも言っていた(気がする…?)のでこの質問は極々自然なものです。

しかし、その質問に対する答えは今のところNOです。

自分でもわかってます。このパプアでの経験を一番に共有すべきなのは日本の生徒たちで、それができる仕事は学校の先生。学年集会や生徒が人生で迷った時に生徒を突き動かす一言を言えるのは、こういう経験をしたことのある青年海外協力隊員であるということも。でも、それでも学校の教員には戻りたくないんです。

 

なぜ学校の教員に戻りたくないのか

理由はシンプル。

自分のしたい事があまりできないから。
自分のしたくない事をたくさんしないといけないからです。

自分のしたいことは、(簡単にいうと)生徒を人として成長させること。
逆にしたくないことは、生徒が人として成長するのに邪魔なことと、無駄なこと。

「好きなことをするにせよ、なんにせよ、仕事に我慢はつきものだよ。」と先日、親にも言われました笑 確かにその通り。でも、今の学校はどう考えても自分のしたいことが極端にできなく、自分のしたくないことをたくさんしないといけないように見えてしまうんです。(※誤解を招かないように言っておきますが、両親は自分の進路に対して肯定的に見守ってくれています。ありがたい。)

 

具体的には…?(学校の教員に戻りたくない理由)

具体的な例で言うと、学校での授業です。
お受験のための勉強内容を教えたくないんですよ笑

理由は簡単。
今の高校で教えるべき勉強の「内容」自体にはほとんど何の意味もないから。

これだけ聞くと、「本当にパプアで歪んでしまったんだなぁ…かわいそうに。」と思われる方も多いと思います笑

ですが、こう考えるようになった理由もちゃんとあるんです笑

 

高校で教える勉強の「内容」自体には意味がない理由

その理由は主に以下の二つ。

①協力隊の活動で役に立った「高校の勉強内容」は何一つなかったから

②受験を無視した授業をした方が、よっぽど有意義だと感じたから

①協力隊の活動で役に立った「高校の勉強内容」はほとんどなかった

①は簡単ですね。文字の通りです。

協力隊の活動を技術的に支えてくれたものは、大学で必死に身につけたパソコンの知識や情報リテラシー、社会人になって生徒や上司、同僚、地域のおじさんたちに教えられた人間力やノウハウです。

僕だけでなく、今、大人になっている方のほとんどが「高校の勉強内容」をほぼ使わずに生活されているんじゃないでしょうか。
高校の時に習った国語も、数学も、英語も、社会も、専門である理科でさえも、『内容』的には習う必要なんてなかったと思います笑

 

本当に…!?(①に大半の人がするであろう反論)

ここでよく来る反論としては、「そうは言っても、高校の時に習った『内容』でパプアで使った・知っておいてよかったものがあるだろ?」ですよね…?

確かに、高校の時に習った英単語、日本史(パプアでの日本の戦争)、地理(パプアの気候や地理的特徴)の『内容』はパプアで目にする・耳にすることがありました。その時、多くの人は「勉強しといてよかった〜」と思うのかもしれません。

でも、僕からすれば…

「それって3年間かけて高校で習った『内容』の何%に相当するんだ…?」

「しかもその『内容』、高校の時に習ったから、うろ覚えだし、深く学んでないし、結局もう一回ググったり、現地の人に聞いて再確認するよね?」

「高校で勉強するよりも『知りたい!』と思ってから能動的に学ぶ方がよく頭に残るよね?」

ってなるんです。

 

確かに、職業柄、高校で習った時の「内容」を使うような職業もあります。(具体的には教師、研究職、技術者系)でも、その人たちでさえ、仕事に関わる「高校の勉強内容」は5教科7科目中、1か2教科に渡っている程度でしょう。

だったら高校の時、たくさんの教科に囲まれて無理やり覚えさせられたあの『内容』ってほとんどが無駄だったんじゃないのか…?と思えてきたんです。自分、高校の生物教員ですら全教科中の20%程度しか大人になって使ってないので…。
(自分は文系クラスから生物教員になったので数学はほとんど習ってません。それでも、理系教科の生物で困ったことなんて何一つありませんしね笑)

「海外に行った時に、役立つかもな〜…」と思いつつ、授業でうたた寝かましてた&忘れ去っていたのに、協力隊では全く困らなかったのが経験的な裏付けでもあります。

 

②受験を無視した授業をした方が、よっぽど有意義だと感じたから

ここからは「日本ではやっちゃいけない」とされている授業をパプアでやっていた経験を踏まえての話になります。

高校で教える勉強の「内容」自体には意味なんてないのかも…と思い始めた最大の理由です。

パプアではいよいよ「お受験の勉強内容」が役に立たない

ここからは、パプアっぽい話になりますが…

パプアでは、国民の半数の人が自給自足で暮らしています。そして子供全体の24%しか高校に行けません。そして大学に行けるのは何%かは分かりませんが、僕の配属先である1,300人級の高校ですら十数人程度しか進学できません。大学に進学したとしても10%程度の生徒しかちゃんとした企業等に就職できません。

そんな彼らに生物を教える時、僕は非常に困りました笑

おそらく、僕が担当した生徒のうち、受験で生物を使えるレベルに持っていける生徒は数%(偏差値が非常に低い公立高校程度の学力だと思ってください)。そして、そもそも彼らは家畜を飼い、畑を耕し生物に関する知識は経験的に全員持っています。高校卒業後、大半の生徒がそんな生活の故郷に帰っていきます。

はたして、お受験の勉強を彼らに教える意味があるのか…?

 

お受験を完璧に度外視した授業を作ってみた

約1年間いろいろ考えた結果、
僕は後半の1年を大多数の「将来お受験の勉強を使わないであろう生徒」に授業のレベルを合わせることにしました。
もちろんレベルの高い生徒にも、勉強ができるようにプリントや教科書のコピーで別途手当てはしています)

お受験を完璧に度外視した授業。もちろん教員人生で初めて作る授業です。だけど扱うものは理科の生物でなければならない。
ここで考えた事は「僕のしたいこと・授業を通して生徒を人として成長させること」。
彼らが大人になった時、他人と考えを伝えあったり、出稼ぎに出た時に仕事の内容を正しく理解したり、物事がうまく行かない時に原因を究明したり、試行錯誤できたりする必要があると考えました。

そうすると、
自分の授業の目標は「生物の『内容』を学ぶ」ことがから…
「とことん各トピックに時間をかけて、生徒の『覚える』『理解する』『考える』『試行錯誤する』『話し合う』能力を生物を通して育てる」ことに変化しました。そのため・・・

・生徒のテストの点が低かろうが、答えが間違っていようがとやかく言わない・気にしない。

・「覚える」ことの大切さやコツを学べばOK。

・人の話や文章、図をきちんと「理解」していればOK。

・たとえ正解にたどり着けていなくても「考える」「試行錯誤する」ことがしっかりできていればOK。

・間違っていても自分の意見を「話し合え」ていればOK。

(最終的に目標が達成できれば生物の「内容」も定着させられるような授業ができるようになりましたが…)

以上のことを徹底して、生物の教科として正解にたどり着いていなくても、どんなに時間がかかっても目標が達成できていればとにかく褒めました。これで生徒たちのテストの点に変化があったかと言われると、正直わかりません。(これを検証するには1年目と2年目であまりにテストの範囲や条件が違ったので比較ができなかった)

ですが、あからさまに彼らの授業中の行動が前向きになりました。

シャイでわからなくても手をあげない、話し合わずにひたすら僕の正解を待つ生徒がほぼいなくなりました。
(実は、パプア人って日本人を凌ぐほどの超絶シャイ民族なんです)

簡単に言うと生徒たちは人として成長してくれたんだと思います。

確かに、これは僕の感覚として1年目と2年目に差があったと感じているだけで、はっきりとした点数や評価で証明することが難しい生徒の変化です。それでも、拙い英語での授業が崩壊しなかったこと、テストの点が極端に低くならなかったことを考えると「教科の内容を学ぶこと」が授業の目標にならなくても、生徒を確実に人としてプラスの方向に成長させることができる事は確かです。

テストやお受験に固執しない方が、かえって生徒の人間としてのポテンシャルを高めたり、生徒の人生を有意義にすることにつながるという事をパプアの生徒に教えてもらえました。

 

結局、なんで僕は学校に戻りたくないのか…?

ここまで、高校で教える勉強の「内容」についてツラツラと文句を書いてきました。

しかし、これはあくまで勉強の「内容」の話です。勉強自体が悪いといってるわけではありません。この「内容」という言葉を別の言葉で置き換えると「国・社会によって覚えるべきとされている知識」になると思います。

そして今現在、日本の高校では、この学ぶべき「内容」が明らかに多すぎる。

(↑パプアから帰って全部捨てた学校の教科書。)

感覚的にパプアの倍以上の量はあると思います。具体的な例を挙げると、僕が日本で教員をしていた時、理系の生物の教科書を全ての章をきちんと終わらせる事ははっきり言って不可能でした。実験もディスカッションもほとんどやる時間がないほどです。

しかし、社会のお受験ムードは強まりつづけ、さらに「ゆとり教育のせいで学力が下がった」と言う不確かなデータのせいで教科書の「内容」が近いうちにまた増えるそうです笑

やりたくもない、やる意味もない「内容」を無理やり覚えさせられて、それで順位や成績が付けられる。
それだと、一部の勉強ができる生徒だけが成長できるように見えて、それ以外の生徒は自分に自信をつける機会に全く恵まれないですよね…?

自分に自信が持てないと、人はなかなか成長できません。
そういう社会の動きが止まっていない、むしろ拍車がかかっているから僕は学校に戻りたくないんです。

 

僕が”パプア”を経験して一番言いたい事。

結局僕らが生徒に施すべき教育の形は、「将来役に立つのは多くて学んだ内容の20%ほどだろうが、コンピューターのように知識をたくさん蓄えろ!」という事なんでしょうか…。

僕の両親の世代は詰め込み教育世代、知識が全ての世界だったと思います。
あまり良くない言い方をすると、世界が今より単純な時代だった。

しかし、この数10年でコンピューターが発明され、インターネットが普及し、高校生のほぼ全ての生徒がスマホを持つ時代になりました。
昔はあった職業やサービスがどんどんなくなり、それに代わる新しいものがたくさん生まれています。
生徒が勉強の先のゴールに見据えるものが変わっているということでもあるはずです。

しかし、今の学校は…。僕が新卒として赴任した5年前から何も変わっていません。
いまだに学校でのスマホを禁止していたり、学校がインターネットと隔離された状態です。

できる事はパプアとほとんど変わらねぇじゃんか…。何のためのインターネットなの?ゲームするためのスマホなの?

途上国真っ只中のパプアの学校で「こんなことができたらいいよなぁ〜…日本のネット環境さえあれば…!」と思ったアイデアは山のようにありました。でも、日本の実際は日本ではできる環境も設備もあるはずなのに、保護者のクレームやらなんやらを気にする教育委員会の方針のせいで全くできていない。

正直、新型コロナウイルス騒動で学校は大きく変わってくれると思っていました…。
でも、いまだに大半の学校のやっている事は休み期間中の宿題をプリントに刷って生徒に配ること。
逆にプリントを渡す時にウイルス感染のリスクを高めてるよね…?正直、呆れてものが言えなかったです。

こういうことを言うと、学校の先生たちに矛先を向ける人がいるんですが、それは大きな間違いです。
学校の中には僕よりも頭のいい先生たちが教育委員会や文部科学省の決めた方針や制度の中で毎日ズタボロになりながら働いています。

変化の舵取りをするのは教育委員会と文部科学省。
パプアと違って、ちゃんとした日本の偉い人たちが作ってきた教育ですが、どうもお上と現場とでは認識のズレがあるみたいです。

パプアの途上国に行ってみて日本ができる教育の形が見えたはずなのに、それを目指せる見込みがありません。
2年間修行して帰ってきたのに、日本でできる事は下手をすればパプア以下。なら本当に戻る意味がないよな…
と思っている青年海外協力隊のOV隊員の記事でした!
(長い文章にもかかわらず、最後まで読んでくださってありがとうございました!)

 

 

 

 

 

 

 

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